学校の旧校舎には、長い間使われていない小さな部屋がありました。校舎の隅、階段の奥をさらに進んだ先に、その部屋はひっそりと存在していたのです。部屋の扉には、なぜか大きな姿見が取り付けられていて、「絶対に開けてはいけない」という話が代々の生徒たちの間で語り継がれていました。誰もその理由を知る者はいませんが、「開けると戻ってこられない」だの、「鏡に吸い込まれる」だの、まことしやかな噂ばかりが増えていきました。
ある日の放課後、カナはうっかり教室に体操服を忘れてしまったことを思い出し、ひとりで旧校舎へ向かいました。友達はすでに帰ってしまい、夕方の校舎は静まり返っています。夕日が窓から差し込み、廊下の影を長く伸ばしていました。カナは階段を上り、誰もいない廊下を進んでいきます。
教室から体操服を回収し、帰ろうとしたそのとき、ふと視線の端に気配を感じました。振り向くと、あの「絶対に開けてはいけない」と噂される扉がそこにありました。何気なくそちらを見つめたカナは、無意識のうちに鏡に引き寄せられていきました。
扉に取り付けられた大きな鏡は、何年も人が通らなかったとは思えないほど、奇妙なほどにきれいなままでした。カナは思わず鏡の前に立ち、自分の姿を確かめました。だが、次の瞬間、背後に人影が映ったのです。明らかに自分ではない、制服を着た見知らぬ少女の姿が。カナは一瞬動けなくなり、心臓の音だけが響きました。
慌てて振り返ると、誰もいません。再び鏡をのぞくと、そこにはまだその影が映っており、今度は鏡の中でゆっくりと扉を開けようとしていたのです。カナは悲鳴を上げそうになるのをこらえ、荷物を抱えたまま廊下を全力で走り去りました。
その夜、カナは夢を見ました。夢の中で、自分はまたあの旧校舎にいました。廊下の奥にある扉の前に立ち尽くしていて、どんなに足を動かそうとしても体が動きません。そして、「ギィ…ギィ…」という、あの扉の軋む音だけが響き続けるのです。
翌朝、夢から目覚めたカナは、ただの夢だと自分に言い聞かせました。けれど、それから毎晩、同じ夢を見るようになりました。夢の中の扉は少しずつ開いていき、ある夜には、鏡の中の少女がはっきりとこちらを見つめ返してきたのです。
不安になったカナは友達に話してみましたが、「こわい夢見ただけでしょ」と笑われるだけ。先生に話す勇気も出ず、カナはひとりでその夢を抱えたまま過ごす日々が続きました。
数日後の放課後、いつものように教室でノートを整理していたカナは、うとうとしてしまいました。夢と現実の境目があいまいになったその瞬間、またあの夢の場面に引き込まれたのです。
旧校舎。長い廊下。鏡のある扉。誰もいないのに、誰かに見られているような感覚。扉はゆっくりと開いていきます。カナは目をそらそうとしましたが、鏡の中の少女と目が合ってしまいました。
「こっちにおいで」
その声を聞いた瞬間、カナは悲鳴を上げて目を覚ましました。自分の教室。あたりは静まり返っています。夕日が差し込むその中で、ふと視線を落とすと、机の上に一枚の紙がありました。
《開けてくれて、ありがとう》
カナは凍りつきました。紙には見覚えのない筆跡。けれど、そこに確かに書かれていたその言葉が、夢ではない何かを伝えていました。
それ以来、カナは二度と旧校舎に近づくことはなくなりました。けれど、鏡に映る“自分以外の何か”の気配だけは、今もふとしたときに感じてしまうのだそうです。
一言解説
怖さの正体は、外ではなく「見てしまった自分の中」にあるのかもしれません。
鏡に映るものが本当の姿なのか、それとも“見たくなかった自分”なのか。
不安や後悔、無視してきた感情が形になって現れたとき、私たちはどう向き合えばいいのか——
この物語は、「心の奥の扉」を開いたときに何が映るのかを、そっと問いかけてきます。
考えてみよう
・身の回りに「開けてはいけない」場所はありますか?
・鏡に映ったものを信じますか?
・夢で同じことが繰り返されるとしたら、あなたはどうしますか?